![Image025[1]](http://blog-imgs-40.fc2.com/3/b/a/3ba/20080524005004s.jpg)
大きくもなく、のっぽでもない。
買って6年くらいだから、古時計でもない。
ましてやおじいさんのでもなく、僕の時計。
完全に止まりました。
ちょっと前から頻繁に止まるようになって、電池を変えればそれからしばらくは動くものの、数時間もすればまた止まってしまう。
そんなことを何度かループして、とうとう僕の根気が途絶えてしまった。
毎回、秒針が20秒前後を指して止まっていたことから考えると、このあたりに彼にとっての難関があったんだろうと思う。
そら、1分毎にピンチがやってきては、気力も体力も限界に達してしまうだろう。
そう考えると、よく頑張ってくれたと思う。
彼の労をねぎらいつつ、そっと電池を外し、元の位置に掛けてやる。
時計というメカは、人間にとっては特別な存在のように思える。
特に止まった時計は、その機能の停止という意味以上に、僕達の命とリンクしたものとして、最期の象徴として捉えられることが多々ある。
8時15分を指して止まったままの時計とか、5時46分で止まったままの時計とか。
ま、気難しい話はやめにして、うちの時計をなんとかしないとな。
人類が言語という伝達手段を身につけてどれくらい経つのだろう。
おそらく数千年は経過している。
そしてわれわれは今日も新たな言葉を生み出し、それがやがて日常へ自然と溶け込んでゆく。
時代の移ろいとともに飛び交う言葉に変化があろうとも、総数は確実に増え続ける。
にもかかわらず、明らかに足りない単語がある。
これまでこの単語無しに、そして生み出すことなくして祖先が生きてきたことが不思議なくらいの、大きな穴が日本語には存在する。
それは、「冷める」の反対語だ。
いくら考えても、辞書を引いても見つからない。
「冷たい」の反対は「暖かい・熱い」。
「冷える」の反対は「温(暖)まる」。
「冷める」の反対語は、2008年5月22日現在、まだ存在しない。
「冷める」の反対語の出番は非常に多い。
たとえば誰かと食事に行って、相手が頼んだ料理が先に来たとしよう。
その食べ物が熱いうちに食べないと美味しくなくなるものだとしたら、先に手をつけるよう勧めるだろう。
その時には「先に食べてや。冷めてしまうし。」というふうに言うだろう。
しかし逆に、冷たいうちに食べないと美味しくないものの場合、「先に食べや。……。」と言葉に詰まってしまうのだ。
もちろん、僕は日本人歴26年だから、「冷たいうちに。」とか「ぬるくなる前に。」と即座に言い換えられるわけだが、「ぬるくなる」の反対は「冷たくなる」だから、ここで僕は無念の妥協を強いられているのだ。
バシーっと「冷める」の反対語でキメたいのだ。
何とも言えない歯がゆさが尾をひく。
とって換わるものがあるから良いといえば良いのだが、イマイチ気持ちが乗らない。
双子の妹に惚れたのに、姉に好かれてしまっているような感覚だ。
CD屋の視聴機って、ヘッドフォンが2つ付いてるのが多いけど、他人の視聴中に横から参加してくる奴って、どういう神経してるんやろ。
別に間違ってはいないけど、日本の風土には合ってない。
次の曲に移るのとか、自分のタイミングでやりたいんやけど、もしかしたらこいつにとっては今のところがグイグイきてたりしてるんちゃうやろか…とか考えてしまう気ぃ遣いの僕にとっては大変迷惑。
ふと振り向いて見たら、別のコーナーでも今聴いてるCDが視聴できたりして、「おまえ、そっちで聴けや!」って心の中で叫びつつ、曲送りのタイミングをうかがいつつ…、結局曲が頭に入って来ず。
で、自分のほうのヘッドフォンが具合悪くて、耳とのフィット感がしっくりきていないのに対して、そいつのほうのはすこぶる調子が良さそうで、快調に視聴できてたりして。
さらに、曲名とか見てみようと思ったら、ちょうどそいつの真ん前にCDが陳列されてて、「ちょっと失礼」的に手を伸ばさなあかんかったり。
おまけにそいつのツレみたいなんが来て、そいつがツレに「このCDヤバイ」みたいなことを言おうものなら、いよいよ肩身が狭くなる。
たまに、コードがもげるんちゃうかってくらい、視聴機の前でノリノリで踊ってる奴がいるけど、あんなふうにしてたら横から入られることはないかな。
それとも、背中に「毒ガス発生中」って紙を貼っておくか。
話はかわって、先物取引って、あれどうなの?
最近、怒りさえ覚える。
あんなシステムが許されていいのかね。
自由経済はいいけれど、得するのも損するのも当事者でなければいけないと思う。
部外者の生活がマネーゲームの犠牲になってることが理不尽でしかたない。
いち早くバブルがはじけて、奴らが莫大な負債を抱えることを願うばかり。
そもそも経済活動ってのは役割分担で、その役割ってのは、「何を与えるのか」という役割なわけで、それはつまり施し合いってこと。
奴らは、どれだけ儲けられるかしか頭になくて、与えることを完全に忘れている。
儲けることは大切やけど、それは自らの社会に対する施しの対価であるべき。
良い物を多く与えられた分だけ儲かるのが経済活動の本質だという僕の考えは間違ってるのだろうか。
それとも、時代遅れなのか。
ドイツの思想家、ルドルフ・シュタイナーは、社会の全体を精神・法・経済に三分節化する社会三層論を立て、その上で、精神活動では「自由」、法活動では「平等」、経済活動では「助け合い」が基本理念であるべきと説いた。
「自由」「平等」「博愛」という考え方はフランス革命のスローガンでもあったように、近代市民社会の理想。
競争原理が当たり前の現代に生きる僕たちにとっては、「経済=博愛」はいまいちピンとこないかもしれないけど、「愛のある競争」はできると思う。
アスリートのような、そう、スポーツマン精神みたいな。
爽やかに稼ぐ。
ビジネスマンはスポーツマンでなくてはならない。
<完>
きょうの地震はひさびさに焦った。
べージックな目的以外でAVを観ていたら、強い横揺れに見舞われた。
急いでテレビをつけたら、NHKで緊急地震速報がちょうど流れ出した。
震度5弱以上が予想される地域に東京も堂々ノミネートされている。
これって、揺れる前に発表されるわけだから、これからもう一発デカいのがくるってこと!?
とにかく財布をケツのポケットに押し込んで、窓を全開にして待機。
結局、速報が遅れただけだったらしいけど、あれを見て冷静かつ的確に対応できる人なんてそうそういないと思う。
むしろテンパってしまう。
近々、関東では大地震が起きると言われているけど、その時、僕はどこで何をしているんだろう。
阪神大震災を経験して、不幸にも地震に対しての慣れができてしまっている。
あれ程の地震はもう起きないというような、根拠のない誤った考えもどこかにある。
これは非常に危険なことだ。
反省と自戒の意味を込めて、今朝の地震について記す。
それじゃ、べージックな目的でAVを観て寝ます。
お兄さんとおっさんを分ける基準はいくつかある。
僕が考えるうちのひとつに、公共施設のトイレで大便をする際に、個室の扉の向こうに人がいることを認知しながら、音を立てて屁ができる、というのがある。
この基準でいけば、僕はもうおっさんだ。
生理現象を包み隠さずオープンにできるというのは、重要な基準だと思う。
小学生の頃は、学校で大便をすることはかなり勇気のいるリスキーな行為だった。
しかし、中学高校と上がるにつれて、それは平気になる。
やがて、人前で屁をすることすら躊躇なくできるようになる。
歳を重ねるに伴って見識が深まり、生理現象に対する恥じらいがナンセンスだということを知るのだろう。
大人なればこそのストレスがある一方で、大人なればこそのストレスからの解放もある。
しかし、あまりの自由奔放さが他人のストレスとなるということも考えなくてはならない。
屁のサウンドは良しとしても、スメルにはやはり気を遣ったほうがいいだろう。