週2日の休みに全力を注ぎ込む。 散財もいとわない。 自分が稼いだ金、だれも文句は言えない。 とにかく、休みの日には旨いモンが食いたい。 安くても高くてもいいから、とにかく旨いモン。 今日はジンギスカンを食べに行った。 店の外観から、間違いなく旨いと確信できた。 店員の応対も非常に良い。 メニューの数も無駄に多くない。 そして肉は、言うまでも無くクソ旨い。  〆はつけ麺。 肉のタレをお茶で割ってネギとコショウを入れたスープに卵麺。 スマッシュ・ヒット。 テンションがアホみたいに上がる。 次から次へと面白いことが口を突いて出る。 高校の修学旅行で食べて以来のジンギスカン。 あの頃は、味はそこそこに、満腹になることが絶対条件だったが、今は少し違う。 旨くなければダメ。 「旨い!」を連呼して食べたい。 旨いモン。 それは愛。 今日のジンギスカンに世界平和を見た気がする。 あ、店は教えられません。
今さら都市伝説もどうかと思うけど、僕的に心が躍ったのでご紹介。 ご存知だったらすみません。 みなさんは「プロビデンスの目」を知ってますか? これです、これ。  米ドル札に描かれている、これが「プロビデンスの目」です。 これが何を意味するのかというと、「全ては神の目の監視下にある」ということ。 また、フリーメイソンが象徴としてこの図柄を用いていることから、米ドルが彼らの支配下にあるという都市伝説が生まれた。 さらに、札を折り曲げると、911テロを連想させる絵柄やフレーズになるとして、かのテロがフリーメイソンによる陰謀だったという説がささやかれたりもしている。 さらにさらに、ジョージ・ブッシュがフリーメイソンの一員であるという噂から、フセイン討伐を目的とした自作自演のテロだという話さえも飛び出している。 ま、ここまでくれば、根も葉もないゴシップ以下のレベルではあるけれど、フリーメイソンはそれほど我々とかけ離れた存在ではないということは自明であって、誰もが知っている日本の有名画家もその一員であった時代があったというかなり信憑性のある話を聞いたことがある。 さて、ここでいよいよ本題。 この「プロビデンスの目」、実は日本の札にも描かれているのだ。 お手持ちの1000円札を透かして見ていただきたい。  ということは、我が国の通貨もフリーメイソンによって支配されているということか。 最後にお断りしておきますが、僕はフリーメイソンではありません。 かといって、フリーメイソンを否定的に捉えたりもしていません。 不勉強のくせに批判するのもどうかと思うし。 しかし、興味はある。 でも、おそらくフリーメイソンには入らないかな。 フリーではありたいと思うけど。 さてここで、僕がいま読んでいる本をご紹介。  読書の習慣が身についてまだそれほど経たないけれど、どうやら僕は金運ならぬ本運が非常に良いように思う。 ずっと気になってたこととか、潜在的に感じて記憶していたこと、色々な問題の解決の手がかりとなるような本に次々と出会っている。 毎回衝撃が走る。 僕が本を読む目的は、知恵を生み出すための知識を得ることのみ。 そして、その知恵とは、先の人生をいかに舵を切って進むかということ。 もう少し具体的に言えば、社会人として、大人として、日本人として、地球人として、歴史の一構成員として、何を考え、どう振舞うのが好ましいか、ということ。 大胆に言ってしまえば、良き未来のために自分ができることの模索。 そのために避けては通れない課題が「お金」だと僕は考えた。 近代社会におけるお金のありかたには根本的な問題があると感じていた。 社会にはびこる病の原因はきまってお金。 たしかにお金は大切だが、今日にあっては、その「大切」という感覚に偶像崇拝にも似た奇妙なニュアンスを感じる。 公然とお金の話をすることはタブーで、まさしくアンタッチャブルな神のような扱い。 神のような紙。 駄洒落でもなんでもなく、お金は神と化している。 この不道徳が、不道徳な金融システムを生み出し、世界中で善良なる市民を苦しめている。 人を傷つけるものが果たして神なのだろうか。 「バビロン」という言葉がある。 ヨハネの黙示録では、それは生物であると同時に大きな都市でもあるとされている。 つまり文明。 聖書にはバビロンは淫売行為の母と書かれている。 キリスト教圏で売春が厳しく禁じられている所以だが、より深い解釈をするならば、「捧げられるべきものが売買される」ということ。 という点では、我々が生きる現代の文明はバビロンのど真ん中にあるといえる。 というような思いからこの本を手に取ったところ、驚くほどにミートしている。 まだ半分も読んでいないけど、僕にとってこの本は名言と名案のオンパレード。 と感動しているさ中、エンデのこんな言葉にぶつかった。 「あなたが人生の岐路で悩んでいるとき、ちょうどぴったりの瞬間に、ちょうどぴったりの本を手に取り、ちょうどぴったりの箇所をあけ、ちょうどぴったりの答を見つけるならば、あなたはそれを偶然だと思いますか?」 シビレるぅ〜。
やべー! 懐かしい!! レイカースカラーってのがニクイね。 指輪もブリン2やし。 なにより、この曲カッコ良すぎ! ファンク♪ 明日中古屋いって探してみよ。 EXILEあたりがカバーしたら売れるやろな〜。 横山輝一は「cho cho train」の作者やし、しがらみも少ないと思うけど。 意外に倖田來未でもしっくりくるかも。 って、avexばっか。 カラオケで歌っても盛り上がるよな。 確実に声帯がついていかんけど。
使わなくなったSuicaを返却しようとみどりの窓口に行った。 すると、残金がある場合は手数料として210円が必要と言われた。 いやいやいやいや。 おかしやろー。 世の中の手数料と呼ばれるものの中には、頭を傾げたくなるものが多くあるけど、これほど腑に落ちない手数料もはじめて。 「データ装備費」にも似た怪しげな課金を受け入れられるわけもなく、(というのは大袈裟で、他の事情もあって)今日は返却せずに持ち帰ってきた。 発行時には手数料のことはいっさい聞かされてなかったし、裏面の利用案内にもそのような記述は全くどこにも無い。 と、突然ひらめいた。 今使っている新しいSuicaと裏面の案内を見比べてみると…。  そう、新しいほうには手数料について書かれているのだ。 見えた。 見えたぞ!! 古いSuicaは大学4年生の時に使っていて、新しいほうは去年の夏から使っている。 つまり、2つの利用期間にはさまれた1年強の間に、規約が修正されたと見られる。 ではなぜか。 それは、PASMO対策に他ならない。 PASMOは去年の3月にサービスが開始され、あまりの売れ行きに在庫が僅少となり、一時発売停止の事態にもなった。 飛ぶ鳥を落とす勢いのPASMOフィーバーを前に、もしくはPASMO参入に備えて、JRはSuica利用者の囲い込みを図るべく、手数料制度を導入したと考えられる。 時系列的にもピッタリだ。 あくまでも個人的推測の域を出ないが、ほぼこれで間違いないだろう。 手数料制度の導入は確実にマイナスイメージ。 ともすれば新規利用者を取り逃がす結果にもなりうる。 ちゃんとしたアナウンスが無かったのは、後ろめたさとしたたかさの表れだと言える。 僕の勝ちだ。 近々、210円を払って返却してこよう。
前評判どおり、今年の花粉はひどい。 目頭から鼻にかけての感覚が麻痺している。 脱水症状になるんじゃないかというくらい鼻水が出る。 今年は、外出時にはマスクをしている。 これは、花粉ブロックという目的の他に、鼻水が垂れているのを隠すためでもある。 いちいちかんでたらそれだけで熱帯雨林の砂漠化が進みそうなので、ある程度放っておいて、臨界点でティッシュを取り出す。 この季節は、気候的にはチリバツなのに、花粉のせいでイマイチ足が外へ向かない。 でも、今日は、東京でソメイヨシノの開花宣言も出たことだし、頑張って出かけることにした。 開花ついでに、靖国神社の標準木でも見に行こうかと思ったけれど、チラホラ開いたくらいでは見応えもないだろうと、いつもの読書コースを選んだ。 いつもの渋谷のカフェで読み始めたものの、読み残しが少なかったせいであっという間に終了。 何かかわったことがしたくなり、僕は、自分が便意を催していることに着目した。 よし、トイレに行こう。 六本木ヒルズにトイレしに行こう。 青山・西麻布を抜けて1時間くらいで到着。   あくまでも、ここへはトイレしに来ただけ。 だから、一切の寄り道はしない。 というルールに則って、用を足してすぐにヒルズを後にした。 しばらく六本木を徘徊した後、不覚にもこんなところに来てしまった。   赤坂Sacas。 グランドオープン後初めての週末に行ってしまうなんて。 感想。 ん〜って感じ。 ヒルズしかり、ミッドタウンしかり、この手の複合施設ってどこも同じ雰囲気で、独自の色が無い。 発想が同じだから仕方はないけれど。 商業施設、職場、住宅、学校、病院等の機能を狭いエリアに集結させる「コンパクト・シティ」っていう概念は世界的にもいま流行りらしい。 でも、日本、こと東京で言えば、この動きは都心の一等地ばかりで進んで、郊外には無縁の話。 都市部の空洞化対策という一面もあるというけれど、べら棒な金を出して住める人なんてほんの一掴みで、結局僕みたいなお上りさんたちのデートコースに終わってしまうことだろう。 僕は、それでいいと思うけど。 僕が思わなくても、それが現代社会でもあるし。 こういう場所には、トイレしに行くくらいで十分だ。
炊飯器の「早炊き」機能って必要?? その早さをデフォルトにしてくれればいいんじゃないかと思う。 それで不便する人っているんかな。 それとも、「早炊き」したら若干味が落ちるのかしら。 米を入念にといで、炊く前にしばらく水につけておくと美味しく炊き上がるって、米の袋に書いてあったから、常にそうしてるんやけど、「早炊き」で味が落ちるならモトモコモないし。 そのへんはっきりしてほしい。 この前、先輩に「(下の)名前何て読むの??」って聞かれた。 かれこれ2年も一緒に働いていて、いまさらそんな質問もどうかと思ったけど、丁寧に答えておいた。 それはそうと、名前ってかなり不思議だと思う。 26年生きてきて、未だに自分がそういう名前であることの実感がない。 何よりも身近で、何度も呼ばれて、何度も口に出しているはずなのに。 こんなことを感じるのは僕だけだろうか。 それを考えはじめると、次に出てくるのは自分という存在に対する懐疑。 僕は本当に存在しているのだろうか、ということ。 その果てには、宇宙って何だ?という疑問。 科学的根拠があったとしても、その科学の正当性を証明するものは何なんだ。 あれやこれやとグルグル巡っているうちに、見たい番組が始まったり、メールが来たり、ご飯が炊き上がったりして終了。 おそらく答えは出ない。 でも、名前に関しては、さっき少し答えめいたものに辿りついた。 自分の名前に実感が湧かないのは、それが記憶に過ぎないからじゃないかな。 生まれたときからついていて、親や周りの人に繰り返し呼ばれることで擦り込まれただけ。 ただ単に「憶えている」だけのはなし。 その点では、他人の名前と同じレベル。 差があるとしたら「愛着」の度合いくらい。 名前はアイデンティティではないというのが大きいのかな。 名前って、感じたり、目覚めたりするものじゃない。 自らの体験を通して得たものじゃないから実感が生まれない。 他人と区別するための、ゼッケン番号のようなもの。 だから、実際はなんだっていいということ。 住基ネットの11桁コードでもいいわけで。 ましてや、個人情報の悪用が絶えない現代では、固定の名前を持たず、テキトーなニックネームみたいなのを使って、重要な個人証明は静脈とか指紋認証を用いればいいのだ。 なんて、命の次に親からもらったものを粗野に扱ってはいけないよ。 Beautiful Name!!
ずーっと気になってたことがある。 「写メ(写メール)」という言葉のつかいかたについて。 「写メール」はJフォン時代に始まり、現在ソフトバンク・モバイルが所有する商標であって、他のキャリア端末の同様の機能を指す場合にはこの名称は不適切だ。 ドコモなら「iショット」、auなら「フォトメール」と言わなければいけない。 なんてことを他人に押し付けるほど、僕はケツの穴の小さい男ではない。 僕自身、ステープラーは全てホッチキスと呼ぶし(すでに商標権は消滅していますが)、温水洗浄便器もウォシュレットと呼ぶし、クレーンゲームもUFOキャッチャーと呼んでいる。 商標が普通名詞化することは多々あることだし、広く「写メ(写メール)」と呼んでしまうことには反対はしない。 しかし、どうしても譲れないのが、携帯のカメラを「写メ(写メール)」と呼んだり、撮影行為を「写メる」と言うことだ。 これは、完全なる誤用で、聞くたびに首筋がモゾモゾして気持ちが悪い。 「写メール」とは写真を添付できるメール機能であり、写真が添付されたメールのことなのだ。 たしかに、カメラで撮った写真をメールで送るわけだが、写真をメールに添付してはじめて「写メール」なのであって、携帯についたカメラを「写メール」と呼ぶのはおかしい。 僕は今までこの過ちを犯したことはないし、この先も絶対にない。 「ケータイのカメラ」と言うか、もしくは、ジェスチャーのみでそれを表現する。 という、十分ケツの穴の小さい男なのだ。
HIP HOPを聴かなくなって久しい。 たまに懐メロになってしまったような曲を聴いてノスタルジーに浸るくらいで、新譜なんてものには一切手をつけないでいる。 タワレコ渋谷店へ行っても3階止まりで、4階へは滅多に足を踏み入れなくなった。 NASから程なくして、僕にもHip Hop Is Dead状態が訪れ、元気はエレクトロニクス、癒しはJポップといった今現在。 音楽に限ったことではないが、ハマればとことんのめり込むが、見切りをつければあっさりと後にすることができるタイプの僕。 嫌いになったわけではないけど、思い出というパッケージとなってどこかに収納されてしまうのだ。 まさしく今Hip Hopがそんな状態にある。 しかし、今日立ち寄ったHMVで素晴らしい曲とめぐり合った。 Sweetest Girl/Wyclef Jean Feat. Akon & Lil' Wayne & Niia すでに去年、先行シングルとして発売されていたらしいが、今の僕がオンタイムで新譜情報を感知できるはずもなく、今さらこの曲のことを書いているのは時代遅れかもしれない。 結局、収録アルバム「Carnival, Vol. 2: Memoirs of an Immigrant」の試聴でお目にかかることととなった。 PVからも簡単に推理がつくとおり、歌詞の内容はガチの社会派。 「私の金はどこにいった!?」という痛烈な叫び。 背景は異なれど、日本人にとっても切実な問題。 これから先を書き出すと夕飯が食べられないので打ち止め。 「他人のヒット曲ばかり書いてないで、自分のためのヒット曲も書きなさい」とレコード会社に促され、このアルバムの制作に至ったらしいが、その要求に十二分に応える作品だと思う。 久々に聴き応えのあるアルバム。
6月に改正道路交通法が施行される。 これによって、原則車道通行と定められた自転車について、13未満の子供、70歳以上の高齢者、身体障害者に限って歩道通行が認められることとなった。 それなら、体調不良者も歩道通行可にすべきだと思うが、そんな重箱の隅を突付くようなことはさておき、もっと本質的な部分で異議を申し立てようと思う。 子供や高齢者等が歩道通行を許されることになったのは、ズバリ車道では危ないから。 もっと平たく言うと、フラフラするから。 その分、車両との接触の危険性が高いということ。 ということは、歩道を走れば、今度は歩行者との接触の危険性が高くなるのではないか。 そもそも、自転車が歩道を走ってはいけないのは、歩行者との接触事故を防ぐため。 「あなた達はフラフラで危ないから、歩道を走ってもいいですよ」って、歩行者の安全はどうなったのだろうか。 また、フラフラして車とぶつかると危ないというならば、子供や老人等の車道通行を「禁止」するのが自然だ。 この改正法は、誰の安全を守ろうとしているのだろうか。 併せて、車の後部座席のシートベルトの着用も義務化されるのだが、4人以上の子供が後部に座るなどしてベルトが足りない場合、妊娠中や著しく肥満のためベルトが装着できない場合などは義務を免除するというのだ。 仕方がないのは分かるが、逆に見捨てられているような印象さえ受ける。 それなら、メーカーと共同で即席ベルトを開発するなり、車のベルトの規格等を見直させるか何かして、意地でもベルトを締めさせるべき。 自転車の件しかり、全ての人の安全を確保しようとすれば莫大なコストがかかり、誰かに不都合が生じ不平不満も噴出する。 結局は、国がいざというときの逃げ道や言い訳を準備したにすぎない。 これとは少し話がずれるが、よく車に貼られている「こども乗ってます」のステッカー。 あの意味が分からない。 こどもが乗っている車に対し、他のドライバーがすべき特別な配慮って何だろうか。 寝てるかもしれないから、クラクションは小さめに、か。 いやいや、鳴らすべきときにはしっかり鳴らさないといけない。 あれを貼っている親達に聞きたい。 一体どうしてほしいのか。 はたして、筋の通った答えは返ってくるだろうか。 僕には一切分からない。 おそらく、そんなものはない。 「子供=弱者」という連想を利用して周囲の良心に訴えかけることで、自分達が快適に運転しようという詐欺まがいの行為だ。 もしくは、かわいい我が子のためにこんなステッカーを貼っていますという、単なる親心アピールだ。 と、一連を通してみてみると、いかにも僕が子供嫌いで、子供に嫉妬してヘソを曲げているように思われるかもしれないが、それは全くもって違う。 僕は大の子供好きだ。 自分が子供のときに「子供が欲しい」と言っていた男だ。 誤ったイメージダウンを恐れて、一応フォローを。
インターナショナルなカップルって、今では珍しくない。 外に出れば最低1組は目にする。 そこで、最近ぼくが不思議に思うこと。 外国人と付き合っている女性は、かなりの高確率で薄化粧もしくはノーメイク。 これななぜだろうか。 外国人男性にとって、日本人女性は魅力的に見えて(日本人のぼくはそうは思わないが、という意味ではなくて)、「化粧しないほうが綺麗だよ」的なことを本心から(ぼくは、本心から言える人にしか言わないし、嘘をつくくらいなら、はなから口にしませんが)言うんだろうか。 それとも、外国人嗜好の女性特有の気質みたいなものがあって、その一端が化粧の薄さとして表れているのだろうか。 そういえば、海外留学から帰ってきた女性の、向こうでの写真を見たりすると、こっちにいるときよりナチュラルな印象を受けたりもする。 外国や外国人は、ありのままの自分をさらけ出させるような空気を持っているのだろうか。 なにがどうしてそうなるのかはわからないが、とにかく、外国人を彼氏にもつ女性は、薄化粧もしくはノーメイクの人が多い。 色んなテレビ番組で、視聴者プレゼントや賞品が送られている。 抽選にハガキやメールで応募したり、クイズやゲームに挑戦したり、お便りが採用されれば貰えたり、形態は様々だが、毎日多くの品物が視聴者に届けられている。 そういう番組では、出演者が実際にその賞品や景品を手に持って、カメラがその手元を抜いて、「こちらの○○をプレゼントいたしま〜す!」なんていうシーンが多くある。 実は、そんな場面にも不思議な現象が起こっている。 手元を抜かれた出演者はきまって、持った品物をクイっクイっと回したり、揺らしたりするのだ。 とりあえず、静止していることはほとんど無い。 あれはなぜだろうか。 「手元を抜かれたところで、ちょっとだけ手を動かす」のようなことは、台本にも書かれていないだろうし、カンペでも出ていないはず。 番組のラストで、引きのカメラに向かって手を振る演出のように、まるでお約束事、慣習のようになっているのが面白い。 もしかするとプレゼントが貰えるかもしれないという視聴者のワクワク感と、自らの手元を連動させているのだろうか。 それとも、手元をアップで撮られていることが恥ずかしかったり、落ち着かなかったりするのだろうか。 このことに前から気づいていた人もいるかもしれないし、言われてみてはじめて気づいた人もいるだろう。 この法則は多くの人の共感を呼ぶと思う。 ということは、知らず知らずのうちに目にして、無意識下でインプットされているということ。 すると、自分が仮に出演者側になった時、条件反射的に手をクイっクイっと動かしてしまう可能性は高い。 つまり、いつか見た誰かの動作を無意識に真似しているということ。 その連鎖によって、クイっクイっが定番化したとも考えられる。 ということは、テレビ番組史上で、いちばん初めに手をクイっクイっとした人がいることになる。 これはものすごく興味深い。 「エッチ」を生んだ明石家さんま、「最初はグー」を生んだ志村けんみたく、エキサイティングな話だ。 以上、最近の気になることでした。
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