世間では明日が御用納め。 僕は30日の夜勤明けで納めて、その足で帰省。 うちの職場では、今日から、ちらほら「よいお年を」を耳にするようになった。 2007年。 まぁ、いろいろあったけど、こうして無事に生きてるんなら万事オッケーでしょ。 ここで猛反省したり愚痴ったりしてもしゃーないしね。 そーゆーのはこっそりひとりでやります。 今年もお世話になりました。 来年はもう少し加速しようと思う。 僕とみんなの幸せを願いつつ。
近い未来を語ることは、ともすれば、胡散臭い印象を与えてしまう。 それが遥か遠い未来であれば、「SF」なんて言葉でカテゴライズされて、むしろ人の興味をそそる。 ほんの10年くらい先の未来を語り納得させることは本当に難しい。 精神的距離は時間的距離と比例する。 人々が「SF」を楽しめるのは、その世界との時間的距離が長いからだろう。 実際に、明日宇宙戦争が勃発することが確実だったら、こんなに不愉快なことはない。 にもかかわらず、その手の作品に対して我々がウェルカムなのは、理性や自我の安全が確保されているから。 その逆もある。 太平洋戦争をめぐって、各国間には未だにひずみが残っている。 しかし、白村江の戦いが東アジアの外交問題となっているなんてことは聞いたことがない。 時間的距離が長ければ長いほど、我々の理性は安静を保つことができる。 したがって、見えそうで見えない、ほんの先の未来に起こりうることに対しては不安で仕方なく、防衛本能から、あらゆる情報を懐疑的に捉える傾向があるといえる。 10年ほど先の予測が胡散臭く思われてしまうのはそのためだろう。 さらに、それに加えて、現時点での自分と未来のビジョンとの比較において、あまりにも大きな隔たりがあることを認識した場合の焦燥が、予測に対する否定的姿勢に拍車をかける。 それはつまり、未来の予測の正当性を、何らかのかたちで理解しているからともいえる。 クリエイティビティということについて考える日々が続いている。 クリエイティブって何だろう。 創造。 何かを生み出すこと。 そんなこと、誰でもやっている。 幼稚園児だって、お絵かきの時間にやってるし。 誰かとのほんの些細なメールだって、クリエイティブな作業。 いわゆる「クリエイター」というのは、それで金を稼いでますというだけの肩書き。 じゃ、いいクリエイティビティって何だろう。 それは、未来を描き続けること、だと思う。 しかも、ほんの先の未来。 射的の射程距離が短いほど的中しやすいのと同じで、遠く離れた未来ではいけない。 良識とはちがい、常識は刻々と変化するから。 現状を深く理解して、その延長線上にある未来を見つめる。 ビジョンを描き、伝え続けることが最高のクリエイティビティだと思う。 そして、クリエイティブな人や物がコミュニケイトすることで、実際の未来が生み出される。 だから、真のクリエイターが多ければ多いほど、未来は豊かになる。 念のために、このクリエイターとは「クリエイター」とは違うということを改めておく。 クリエイターがいくらいても、それらが交差しなければ意味がない。 つまり、より多くのコミュニケイションが必要ということ。 さらに、コミュニケーションにはメディアが不可欠。 というよりも、コミュニケイションのあるところには、必然的にメデイアが存在する。 我々は3つの双方向メディアを持っている。 ひとつ目は、インターネットや携帯電話、デジタルテレビといった、いわゆる「メディア」と呼ばれるもの。 2つ目は、我々の身体。 話したり、握手をしたりと様々にあるが、メディアとしての身体がある。 3つ目は、第六感。 何となくではあるが、しかし確かに存在する。 そもそも、メディア(media)ということばは、メディウム(medium)という語の複数形で、mediumには「霊媒」という意味がある。 以心伝心や、あうんの呼吸、虫の知らせといったものは、実は何よりも有効なコミュニケイションなのかもしれない。 最後にまとめ。 クリエイティビティとは。 様々なメディアを介した絶え間ないコミュニケイションによって、近い未来のビジョンを提示し続けること。 いい感じに漠然としてる。 さらなる詳細は「ヤバいぜっ!デジタル日本」で。 さらにその先は、各々の中に具体的に存在する。
これは、ひがみでも何でもなく、「クリスマス=恋人同士が愛を語らう日」というのには納得がいかない。 ふだんから語れよ!と言いたい。 てか、愛は語るもんじゃない!! と言う僕も、彼女がいれば、それなりのことはしてしまう軟派な男ですが。 ま、今年は無縁ということで、ここは日本人らしく、年賀状を書きにカフェへ出かけたわけです。 しかし、場所の選択は重要。 渋谷なんぞに行ってしまっては、雑踏に飲み込まれてしまう。 ありとあらゆるカフェも満席だろう。 てことで、高田馬場をチョイス。 これが、正解。 デートコースにはほぼ選ばれないだろうこの街では、人もまばら。 カフェでもすんなり座れた。 すると、しばらくして、3人組の学生らしき女の子が入ってきた。 その内のひとりの子、なんか見覚えがある。 は!この前の忘年会で行った店のバイトの子。 カワイイから覚えてた。 前は仕事着の法被みたいなのを着てたけど、私服はけっこうギャルな感じ。 女の子の制服姿に萌えたりはしないが(女子高生を除き)、制服を脱いで私服になった女の子にはかなり萌える。 そして、そのエクスタシーは、制服→私服のギャップの大きさと比例する。 その点で、その子はグンバツだ。 と、テンションが上がったところで、今すぐどうなるわけでもなく。 仮に、彼女がスっと席を立ち、スタスタこちらへ歩いて来て、「この前、うちの店に来られたかたですよね?」なんて言われるようなことがあれば、これはとんでもないクリスマスプレゼント。 前言撤回し、クリスマスをクリスチャンより大事にするけどね。 なんてことを、こんな日に限って真っ赤なセーターを着てきてしまったことを後悔しながら、妄想するのでした。
ま、ま、個別にゆっくりと。 やっと新幹線の切符を買いました。 年末年始をナメてました。 若干中途半端な時間帯の便ですが、この時期にゲットできたのは、今年1年の善行が誰かに認められたからでしょうか。 それにしても、渋谷駅のみどりの窓口のお兄さんの、右手人差し指と中指のバンソウコウが痛々しかった。 あのマシーン、もうちょい改良してあげたほうがいいんじゃないかな。 それとも、お兄さんが力みすぎなのかな。 いずれにせよ、痛みを押して、あれこれ空席を探してくれたお兄さんの笑顔はプロ意識の証。 当たり前のことを当たり前にできる。 しかし、それを当たり前とせず称えられる。 仕事のプロは大勢いても、それを見逃さず評価するプロは少ないように思う。 メリー・クリスマス。
晩飯を食いに隣町まで行った帰り、道端で寝ている人がいた。 学生街だからおそらく学生さんかと思われる。 揺すり起こそうとしたが、爆睡していて一向に目を覚ます様子がない。 大通りから脇にそれた細い路地。 しかし、人通りが全くないわけではない。 にも関わらず、誰一人として声をかけなかったのだろうか、冬の深夜の寒空の下、その人はいびきをかいて眠っていた。 しかたなく、駅前の交番へ。 そのあとどうなったのかは知らないが、この時期、夜中の気温は5度以下まで下がるし、置き引きに遭う恐れだってある。 車に轢かれるかもしれない。 そんな当たり前な想像ができないのだろうか。 できたとしても、敢えて見ぬふりをするのか。 もちろん、酔いつぶれるまで飲んだその人の責任も十分にある。 しかし、それと、その人を放置しておくこととは何ら関係がない。 僕にはよくわからない。 全然関係ないけれど。
コンビニのレジに、客の性別と年齢層を入力するボタンがあるのは、けっこう知られていることかな。 それぞれ赤と青のボタンに数字がかいてあるのが一般的かと思う。 うちの近所の店のは、上から「12」「18」「29」「49」「50」というふうな分類になっている。 「小学生以下」「中高生」「20代」「3,40代」「50歳以上」ということだろう。 僕は男だからそれほど気にはしないが、自分がいくつぐらいに見られているかを知ろうと、店員の指を目で追う女性もいるかもしれない。 邪魔くさがって適当に押してしまう店員もいるらしいが、女心を傷つけないためにも、そこは丁寧に対応したほうがいいかもしれない。 かといって、気をつかって思ってもいない層のボタンを押すと、それはそれでマーケティングに支障をきたす。 こんなデリケートな作業を強いられている店員さんは少し気の毒でもある。 と、店員への労いを先に済ませておいて、いざ本題。 さっき朝飯を買いに入ったコンビニの女の店員が、僕の清算時に押したボタン。 「49」。 これは、ありえない。 少し間があっての「49」。 適当に押したとは考えられない。 正解は「29」。 まだまだ水はじく肌のピチピチ25歳。 若々しい服に、若々しい髪型。 ブリンブリンのピアスまでしている。 大学生時に渋谷で補導されかけたほどの童顔。 最近でこそ歳相応に見られはじめてはいるが、「3,40代」とは世紀のミスジャッジ。 WBCで王監督を激憤させたボブ・デービッドソンでさえ、迷わず「29」を押すことができる。 物忘れが多くなったり、涙もろくなったり、独り言が多くなったことなど、その店員が知るはずもない。 何度も言おう。 これは、世紀のミスジャッジだ。 今後、彼女がシフトのときには、赤白帽にランドセルで買い物にいかなくてはいけない。
好きなミュージシャンを尋ねられてミスチルと答える人を探すのは簡単だと思う。 でも、ミスチルの曲で好きなものを聞かれて、まずはじめに「ファスナー」を挙げる人はそうそう見つからないような気がする。 ところが、そんな人がきょう見つかった。 個人的に意外だったのは、それが女子だということ。 あの曲は男心に突き刺さる作品だと勝手に思ってた僕にとっては驚きだった。 彼女が特別なのかと考えたが、ああいった心象風景は女子にも存在するらしい。 まぁ、現実とつき合わせてみれば、そらそうかと納得できる。 解釈の仕方は人それぞれだけど、あの曲を消極的イメージで捉える人とは、僕は馬が合わないかもしれない。 「醜い」なんて言い捨てられようものなら…。 しかし、性格診断にはうってつけの曲だろう。 あの曲をどう感じるかによって、その人の人となりが少し見えそうな気がする。 優劣を判断するってことじゃなくて。 誤解のないように。 「歌診断」なんて、けっこう面白いかも。 いまさら言うまでもないけれど、日本も十分な銃社会ですね。 昨日の佐世保の事件はショッキングでした。 それはそうと、複数人が事件や事故の被害者になったときに、ニュースなんかで「子供を含む〜人」って言うのはなんでだろう。 「大人を含む〜人」とは決して言わない。 子供が含まれているかどうかが、そんなにも重要なのか。 「罪の無い幼い子供が犠牲になった」ということを強調したいのだろうか。 いわゆる「煽り」ってやつか。 どんな意図や理由があるにせよ、余分としか思えない。 老若男女に関わらず、訳なく被害者となることは、等しく無念であり忌まわしいことなのだが。
あらかじめご了承ください。 あした仕事なんで、睡眠時間確保のためにも手短に書きます。 木曜の深夜の「トシガイ」(日テレ)って番組が好きです。 毎回有名人が出てきて、年齢×1万円を手渡され自由に使うという企画。 ただし、使途として「人生をより豊かにする」買い物という条件がついている。 と、ざっと、番組説明はこんなところ。 なんせ、あした仕事なんで。 今週は、報道カメラマン「宮嶋茂樹」。 「不肖、宮嶋」のその人。 手渡されたのは46万円。 何に使ったかのかは省略。 あした仕事なんで。 で、彼がインタビューの中で話したことが印象的だったので、それを書きたいと思いまして、就寝前に取り急ぎ更新しとるわけです。 以下は、宮嶋氏の発言の概略。 今のプロカメラマン達を見て思うこと。 それは、プロフェショナリズムの欠如。 その原因は、デジタルの特徴である「即再生性」。 取材現場でスチールカメラマンがシャッターを切った後、モニターで画をチェックしているのをよく目にする。 彼は、それが非常に見苦しいと言う。 プロなんだから、撮れてて当たり前。 「見たい」という人情はわかるが、なにもその場で見る必要はない。 「それ位の自信も無いのか!」と憤りをのぞかせる。 そして、フィルム写真にはカメラマンの意図が色濃く反映される。 暗室での細工によって、フィルムはいか様にも化ける。 もちろん、デジタルでもそれは可能。 しかし、無制限に複製可能なデータには、本来カメラマンにとって特別に価値のあるオリジナルプリントという存在は無い。 妙に考えさせられる。 デジタルの大きな長所のひとつがスピード。 瞬時に物事を構築できる。 それだけに、どことなく熱がないように感じる。 今の社会は、ほんとデジタル的。 スピード、スピード、スピード。 特に最近、ネタの面白さではなく、一発ギャグや奇妙なキャラで売れるお笑い芸人が多いのも、無関係ではないように思う。 作り手も、受け手も、待つ忍耐力がない。 熱した鉄を繰り返し打つような業を見たい。 やりたい。 デジタルも素晴らしいけどね。 現に、このブログだってデジタなわけだし。 でも、手短にといいつつ、結局1時間かけてこの記事を書いてる。 けっこう忍耐の要る作業。 僕に文章構成力が無いといわれればそれまでですが。 ま、そんな感じ。
タバコの「キャスター」のパッケージデザインが刷新される。 今月下旬をメドに順次切り替えていくらしい。 現デザインがスタートしたのが2004年ということで、わずか3年の短命なパッケージだった。 今のデザインは評判が悪かったんかな。 個人的にも、前代のおっさん臭い、超アナログなデザインのほうが良かった。 今度のは、前代のデザインに立ち戻った感じがある。 やっぱり、世論もそうだったんだろうか。 もちろん、ここのところの禁煙ブーム(愛煙家エンクロージャー)の影響もあるだろうけど。 それより、今ってコーヒーの値段も上がってるん?? 某コーヒーチェーン店で、2週間前に200円から210円に値上がりしたコーヒーが、今日220円になってた。 食料の値段が上がるってのは、なかなか恐ろしい。 今当たり前のように口にしているものが、いつの日か贅沢品になってしまわないだろうか。 物を選ばなければ、腹を満たすことはそれほど難しくはない。 それよりも、飽食の時代を生きてきた僕達の、食に対する麻痺が祟ることのほうが恐怖だ。 日本国民の多くは、世界的に見てハイグレードな食生活を送っている。 店に並んだほとんどの商品は、いわばブランド品。 しかし、消費者の中にはその認識はきわめて希薄だと思われる。 いま、銀座では一流ブランドのブティックが次々にオープンしている。 いつか、これらのブランドが一斉に撤退を始める日が来るとしたら、そのとき僕達は何を食べているのだろうか。
 「蛇の回転錯視」。 錯視で有名な北岡明佳さんて人の作品らしい。 今朝の朝日新聞の「be」から拝借。 以下は記事の要約。 左の4つのマルだけが回転しているように見える。 色の並びを変えただけで、左は錯視が見え、右は錯視が見えないようにできている。 淑徳大学の金沢創准教授がこの図形を用いて、赤ちゃんでも錯視を楽しむことができるのかを研究した。 すると、生後6ヶ月の赤ちゃんは、錯視のある方を一生懸命見ようとした。 大人同様、赤ちゃんも錯視を楽しむことができるということが判明した。 では、なぜ赤ちゃんは錯視を好むのだろうか。 赤ちゃんは、より複雑そうなものを好んで見る。 それは、発達途中の目や脳を刺激して、さらなる発達を促すためと言われている。 いずれにせよ、見た目の情報量が多いほど、赤ちゃんにはよいようだ。 そもそも、錯視は情報を水増しする効果がある。 「蛇の回転錯視」では、存在しないはずの動きが見えた。 北岡氏によれば、「美しいものには錯視が隠れている」という。 錯視の好きな赤ちゃんは、美しいものが好きと言えるかもしれない。 と、こんなことが書かれていたわけだが、僕はここで、他人の研究発表を伝えたいわけでも、「蛇の回転錯視」を思う存分楽しんでもらいたいわけでもない。 「美しいものには錯視が隠れている」 この言葉に、僕の感性が敏感に反応したのだ。 「錯視」から、もうひとまわり広範囲なる「錯覚」へと視野を拡大して、「美しいものと錯覚」という関係性について考えてみる。 なんか漠然としていて、論理的に言語化できない。 しかし、明らかに、決して愉快ではないこの感じが結果としてある。 と言いながらも、この度も、お得意の「しゃーない」でやり過ごす。 美しいものが錯覚だとするならば、醜いものもまた錯覚。 全て錯覚。 その錯覚こそが真実。 ということで良いと思う。
目下最大の疑問は、冬場のエアコンの設定温度。 夏場は、冷房の28℃が好ましいと言われているが、冬場の暖房は何℃がいいわけ?? で、調べてみた。 結論から言うと、「20℃」。 このエアコンの温度設定の推奨は、環境省が呼びかけている「クールビズ」と「ウォームビズ」の中核。 クールビズは6月1日〜9月30日、ウォームビズは11月1日〜3月31日と、実施期間まで定められている。 しかしながら、「暖房20℃」は「冷房28℃」よりも世間に浸透していないような気がする。 それもこれも、国やメディアのキャンペーン不足が原因ではないだろうか。 身近な知人にこのことを聞いてみても、みな暖房の設定温度を知らなかった。 僕も知らなかった。 今回のように調べれば簡単にわかることではある。 他人の責任にするつもりはないけれど、「冷房28℃」と比較して、「暖房20℃」のアピール量が格段に少ないのも変な話だ。 しかも、環境省のHPには、「日本では、年間の暖房日数の方が冷房日数よりも多く、気温と室温との差が大きいため、冷暖房兼用エアコン1台あたりでは、暖房の設定温度を下げるほうが、冷房の設定温度を上げるよりも削減効果が高いといえます。」と書いてある。 そう、彼らの主張に基づくならば、暖房の設定温度のほうが、より意識されるべきということ。 ひとつの疑問は晴れたが、新たなモヤモヤが発生してしまった。 次の話題。  これ、とある大学の校章。 昨日、この大学のラグビー部員12人の大麻吸引が新たに発覚し、これに伴い、名監督が辞任した。 いや、もちろん、そうじゃないですよ。 明らかに足りませんから。 でも、そんなふうに見えてしまった。 ただ、それだけ。 ※関東学院大学の校章は、オリーブの三葉をもって校章とします。旧約聖書中の有名な「ノアの方舟」の物語の中で平和と繁栄を象徴するものとされています(創世紀8章11節)。 一つに結ばれた三つの葉は三位一体なる神をしめすとともに教育理想である三育すなわち知育、徳育、体育を表します。 (関東学院大学HPより)
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